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2024/04/25 19:06 |
力道山その5

力道山の人物像
力道山は自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実(客人の前で、馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の車から突き落としたりして、強靱な肉体があるからプロレスラーは「ケロっ」としているというアピールを好んで行った)である。梶原一騎原作の劇画「プロレススーパースター列伝」等で、手術後に飲酒をし、寿司を喰ったために腸閉塞を起こしたという話がまことしやかに出回ったこともあるが、これはデマである。

また、力道山の性格は粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が良いときはボーイに1万円(※当時の1万円は相当な額である)のチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ(泉麻人の著書「B級ニュース図鑑」によると一部の新聞紙上には「力道山また暴れる」と報道されているようだ)。力道山自身がキャバレーで「俺は強いんだ!」と酔って大暴れし、力でかなわないので困ったキャバレーのボーイ(正確には従業員ではなく暴力団系の「大日本興業」の構成員)がナイフで刺したが、力道山はそのナイフをつかんで「こんなナイフで俺が死ぬかよ!」とさらに自分で腹を刺し続けたという説もある。このような粗暴な行為に関しては、本人の生来の激しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出掛けてトラブルを引き起こしたという証言もある。またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。プロレスラーの遠藤幸吉を介して知り合った作曲家の古賀政男によると「力道山は直情径行で竹を割ったような性格。しかし頑固で人の意見を聞かないところがあった。話題の多いスポーツマンらしい、大粒の人物だった」と評している。

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2008/07/09 23:57 | Comments(0) | TrackBack() | 力道山
力道山その4

刺された傷そのものは大したことはなかったのだが、再手術の際に麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことで窒息し、死に至る(担当医が亡くなる直前に著書で告白したことから発覚した)。また付き人であったミツ・ヒライの話によると、麻酔の打ちすぎだったともいわれている。後に実行犯へのインタビューによると、ナイフは根元まで刺さっていたが、出血はほとんどなかったという。ちなみにこの時の看病をしていたのがアントニオ猪木である。

また、一説では術後にもかかわらず、力道山本人が暴飲暴食(炭酸を控えるよう指示があったにもかかわらず見舞い客の前で「大丈夫、大丈夫」とサイダーをゴクゴク飲んだことなど)をした事が原因ともいわれていた。

刺殺事件の顛末
2007年になって、実行犯と目撃者の証言によって刺殺事件の顛末が語られた。
女性と話していた力道山の横を大日本興業構成員が通り掛る際、力道山の足に接触。それに怒った力道山が因縁をつけると、彼は「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。激怒した力道山が彼を突き飛ばす。壁に激突し、顎がガクガクになった彼は殺されると思い、懐から登山ナイフを出す。それを見て力道山が「分かった。仲直りしよう」と言い出すが、それに対し彼は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山が彼に覆いかかった時、下からナイフを刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血はほとんどなかったという。

1日目は応急手当を受け帰宅。彼とは内内の話にするため手打ちの契約を行う。

2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい30針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話を大きくしないため親しい医者のいる病院にしたという。

7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告するが、その約6時間後午後の9時過ぎに死亡した。 なお、死因は筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという分析もある。



2008/07/09 23:55 | Comments(0) | TrackBack() | 力道山
力道山その3

力道山の隆盛
大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。日本のプロレス界に、付け人など、相撲の影響が残っているのはこのせいである。 1955年には、キングコングを破りアジアヘビー級王座を獲得する。1958年には、ルー・テーズを破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1974年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビー級王座とは違いカリフォルニア州近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。ルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。


1963年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦での平均視聴率は実に64%を記録、これは今日においても日本のテレビ視聴率歴代4位である。現代とは比較になりにくいが2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵し、当時の力道山の人気が絶大であったことがうかがえる。

1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家系大日本興業構成員に脚が当たった事で口論になり馬乗りで殴打した所、下から登山ナイフで腹部を刺されるが自ら持ちかけた喧嘩という事もあり表沙汰にせず、知り合いの勤める山王病院に入院。その傷が元で12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。



2008/07/09 23:53 | Comments(0) | TrackBack() | 力道山

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