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2017/06/26 09:02 |
力道山その8

力道山の国籍問題
1984年週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は17歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」と伝えられているという。

公にはしていなかったが朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席と親交があり、1962年3月13日に贈呈したとされるベンツが妙香(ミョヒャン)山の国際親善展覧館に展示されている。

力士として
番付では長崎県大村町の出身となっている。幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。

廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。当時の基準としては大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。相撲協会が朝鮮人の力道山を差別したからだという説もある。

一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だった。その趣旨は「一度引退を内外に表明して、引退相撲(その収益は力士当人に還元されるのが通例)まで開催した力士が、後で現役復帰を求めるというのは筋が通らない」とするもの。力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。

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2008/07/10 00:02 | Comments(0) | TrackBack(0) | 力道山
力道山その7

プロレスラーの百田義浩(元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・プロレスリング・ノア副社長)は力道山の実息。当時の厳しい差別などもあってか自らが朝鮮人であることは生前は周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。亡くなる10ヶ月前に結婚した田中敬子(元日本航空スチュワーデス。死後、百田姓から抜けた)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである。

力道山は実業家としても成功し、赤坂に「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。また日本人の友人と共同で箱根にゴルフ場を経営する計画があり設計までに至っていたが、上記の急死によりこの事業は消滅した。死の少し前には、相模湖畔にも、大規模なゴルフ場、「相模湖レイクサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖ピクニックランドとなっている。


死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したがスポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため一段のベタ記事扱いとなった。しかしそれをマクラにした落語家はいなかったという。



2008/07/10 00:00 | Comments(0) | TrackBack(0) | 力道山
力道山その6

また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。

大きいイメージを持たすため実際より5㎝身長をサバ読みした。それにより後の世代のレスラーも皆最低5㎝サバ読みしなければならなくなった。

このように、力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない(その人気と功績から、広辞苑にも名前が載っている)。生前は朝鮮人であることがほとんど知られていなかったこともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は戦後日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶり、国民的ヒーローとして熱狂的な人気を得たという点ではスポーツに限らず後にも先にもこれだけの存在はいない。テレビの普及にもはかりしれない貢献があった。


力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も力道山の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」など極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている)。その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮民族の大木金太郎であったともいう。弟子の教育には合理的な面もあり、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという(力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった)。



2008/07/09 23:59 | Comments(0) | TrackBack(0) | 力道山

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