力道山の隆盛
大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。日本のプロレス界に、付け人など、相撲の影響が残っているのはこのせいである。 1955年には、キングコングを破りアジアヘビー級王座を獲得する。1958年には、ルー・テーズを破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1974年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビー級王座とは違いカリフォルニア州近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。ルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1963年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦での平均視聴率は実に64%を記録、これは今日においても日本のテレビ視聴率歴代4位である。現代とは比較になりにくいが2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵し、当時の力道山の人気が絶大であったことがうかがえる。
1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家系大日本興業構成員に脚が当たった事で口論になり馬乗りで殴打した所、下から登山ナイフで腹部を刺されるが自ら持ちかけた喧嘩という事もあり表沙汰にせず、知り合いの勤める山王病院に入院。その傷が元で12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。
PR
トラックバック
トラックバックURL: