力道山の国籍問題
1984年週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は17歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」と伝えられているという。
公にはしていなかったが朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席と親交があり、1962年3月13日に贈呈したとされるベンツが妙香(ミョヒャン)山の国際親善展覧館に展示されている。
力士として
番付では長崎県大村町の出身となっている。幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。
廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。当時の基準としては大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。相撲協会が朝鮮人の力道山を差別したからだという説もある。
一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だった。その趣旨は「一度引退を内外に表明して、引退相撲(その収益は力士当人に還元されるのが通例)まで開催した力士が、後で現役復帰を求めるというのは筋が通らない」とするもの。力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。