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2024/05/05 16:42 |
力道山その2プロレス転向後

力道山のプロレス転身
その後新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系レスラー・ハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライナーズ・クラブ」が進駐軍慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレスラー転向を決意し、東京都港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。そして1952年に渡米し、翌1953年帰国して日本プロレス協会を設立する。

シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップでばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始された事も重なり日本中のヒーローとなる。1954年12月29日、蔵前国技館で開催されたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦で柔道王者の木村政彦に勝利し、日本のプロレス界を統一した。しかし、世紀の一戦が八百長崩れであることが明らかになり(プロレスに一定のストーリーがあるということは当時全く知られていなかった)、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。また、シュライナーズ・クラブに慈善活動への協力を求められると、力道山は金銭を要求したため、シュライナーズ・クラブとの縁も切れてしまった。

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2008/07/09 23:51 | Comments(0) | TrackBack() | 力道山
力道山その1プロレス転身以前

力道山(りきどうざん、역도산、1924年11月14日 - 1963年12月15日)、本名は金信洛(キム・シルラク、김신락)、戸籍名百田光浩(ももた みつひろ)。は、大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦ともいわれる)終了後に日本のプロレス界の礎を築いたプロレスラー。大相撲の力士出身であるが日本プロレス界の父と呼ばれている。享年40(満39歳没)。

身長176cm(但し、プロレスラー時代の公称身長は180cm)、体重116kg。朝鮮在住時代に既に結婚し、子供もいたことから、実際は公称生年月日より早く生まれていると考えるのが妥当である。

大相撲力士時代
 
力士時代の力道山の出身は大東亜戦争前の日本併合下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)とされている。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。

二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場したが敗れる(優勝は羽黒山)。翌1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東富士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、不戦勝となって殊勲賞を受賞している。1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍。



2008/07/09 23:47 | Comments(0) | TrackBack() | 力道山

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